松本へ

魚の泳ぐ帽子を被り、新宿を正午に発つ高速バスに乗りました。
長野遠征は2度目。でも自分を待つ誰かの顔を思い浮かべながら出発する旅は格別です。
ゆるい渋滞を抜けると、何処にでもあるような日本の森があるのだろうと高を括っていたのだけれど、
こうしてゆっくりと追憶にふければ、会場へと続く町並み、初めての帰り道や知らない散歩道、催眠術のようなBGMの流れる中華料理店、店主の美学が光るモカパフェ・・・がありました。
肌を突き刺す真っ黄色の日差しはじりじり体力を奪ったけれど、今、ぼくは両肩に付いた日焼けのグラデーションを愛しく眺めている。やはり松本市を好きになったのです。


「うきうきし過ぎて身を乗り出してしまう本間君」


ガタリは歌い、友人の演奏に感化し、街のお客さんを見つめた一日目・・・。
ひとりの川辺を横切った電車と、帰り道の夕海さんが引く自転車の、ふたつのカタカタ。
召し合わせたガラス戸のごとく布団の上でぼくは、ゆらゆらといつの間にかカタンと締まり、眠りに落ちていたのでした。

朝、夕海さんの「いってらっしゃい」という声を背に張り切って飛び出し、早速近くの小山を探検することにしました。老朽化した文化センターの入り口で犬を見つけて、急ブレーキを踏む。右側の細い道からつんとする緑の匂いがしたので、自転車を待たせずんずん登っていきます。
道が途絶えたところで、暫く木々に見入っていると左の足首に針が刺さり、ぎょっとして即座に目を落とすと大きな蟻でした。
寮へ戻ってみると2階のベランダにピクニックのような朝食が準備されていたのですっかり元気になりました。
バターたっぷりの厚切りトーストに桃、ブロッコリーなどを頬張りながらその日の予定を立てます。


電車に揺られること40分、2度目の諏訪湖が現れました。
湖を一望できる蕎麦屋にタクシーで向かいます。
にしんそばを待つ間、鳶の熟練した飛行を眺めてうっとりしていると、
右から小さな野鳥が、まもなく左からつがいのトンボが飛んできたのでした。
美味しい昼食を食べた後、ぼくと須山君はけもの道を伝って駅まで戻る作戦を立てていましたが、
天国のふたりはまったく気乗りしない様子、結局は人道で駅へと向かうことになったのだけれど、
日差しがキツイ上に屋根もなく、くねくねと蛇行する眼下の目的地はというとはるか先でした。
疲労困憊の宮国さんの耳が遠くなってきた頃、地元のひとらしい格好のおばさんが目の前を横切り、車道からスルッと抜けて消えました。
そして消えた付近の地面を見ると白い足マークがあり、その先に垂直に下る小さな階段が続いていたのでした。
このショートカットの出現に意気揚々とした4人はその後も、このショートカットを見つけるたびに「お!またあったぞ!」などといちいち大はしゃぎし、鳥の鳴き真似をしながら、段々に並び写真まで撮ったのでした。
諏訪湖の足漕ぎボートでは遊覧船に手を振ったせいでSOSと勘違いされる事件も起こりはしたものの、終始和気藹々。
一足先に帰京する宮国さんを上諏訪駅で見送り、寮に戻りました。


とっぷり暮れた夜、寮のベランダにて銭湯帰りの夕海さんを呼んで、みんなでビールを飲む。
公演の稽古から次々と帰ってくる学生たちを見て、雛鳥たちが巣に戻って来るようでかわいいと呟く本間君。
部屋も戻り、夕海さんをマッサージすると溌剌とした彼女からは想像も出来ない程の疲労が溢れてきたので心配になりました。
ぼくは彼女の役に立てないことをよくわかっているので、お返しのマッサージをしてもらうのは嫌だったのです。でも、そんな卑屈な考えを吹き飛ばすほど好かれていると気が付いて、ぼくはもう、とてもしあわせでした。


寮とお別れの日。ぼくは卵掛けご飯を食べて、神社の森から吹く風に涼みながら洗い物を片付け、ベランダに干したバスタオルを取りに階段を駆け上がる。
誰をも迎え入れてきた懐の広い玄関をみると、既に靴は数えるばかり。
連絡網のための黒板、コピー紙で出来た非常口の看板がペラペラと鳴る10時。
帰ってくる子達のためにいつまでもここにいるのだな、とこの温かな建物に深い愛着が生まれ、靴紐を結びます。


住所も電話番号も知らないまま飛び出したけれど、街が導くと踏んだとおりたどり着いたのでした。
夕海さんの働く「温石(おんじゃく)」。
ご主人が日本料理を営み、それを手伝う画家の奥さんの画廊もそこにありました。
近隣の人達も知らないほどのつつましやかなお店です。
食器や家具、水道の蛇口までもが料理をする音に耳を澄ませているので、僕たちも自然とひそひそ声になります。時計はあるけれど、ぼくたちの社会の時間とはべつのものを刻んでいて、どこか別の世界に迷い込んだ錯覚に陥ります。
絵はとても気に入り、木のマッチ箱に入った「小さな生き物カード」をお土産に買いました。


17時に夕海さんと喫茶「アベ」へ。注文したパフェとホットサンドがテーブルに並んで不思議なことに気が付きました。
この2つには明らかな共通点がある!食べ物の姿形にオリジナリティが出せるのか!
そんな愉快な発見とは裏腹に、夕海さんと須山君とぼくは真剣な話。
話に耳を傾けたがゆえか、雪山のようなジェラートの頂上がおじぎをする格好で溶け始めたので慌てて食べました。
バスターミナルまで一緒に歩いてくれる夕海さんの口から「きみには期待しているから!」と思ってもみないことを言われて、バスの中では、メキメキと無数の枝が伸びていく夢を見ました。